「向島」のあゆみ
私たちのまち「向島」は、いつ頃からこのように呼ばれたのだろう。
武蔵の国と下総の国を区切る昔の利根川、その本流の末と言われる「隅田川」の役割は大きい。
梅若丸や朝臣業平、菅原孝標女たちも、隅田川を渡ることが、異なる世界へと踏み込む気持ちを芸能文学に残している。
頼朝も下総で兵を挙げ、隅田川の総鎮守水神の森で与力を待ち、機が熟すのを待って、隅田川を渡り、一気に平家を追撃した。
家康が、関東に入り、利根川と荒川の流れを変え、江戸の食糧を確保する農地を増やし、さらに江戸の城下町を守るため、日本堤と墨堤を作った。それ以降、おおむね吾妻橋より北側の地域は遊水池として、田園風景を保ってきた。
江戸の人々は、風光明媚な隅田川沿岸の行楽地を愛し、いつしか憧れをの気持ちから対岸を「向島」と呼んだのではないのだろうか。
さて、時代は明治となり、西洋に追いつけ追い越せと、近代産業が生まれてきたが、当時は、多量に物資を運ぶことができるのは舟運だけ。いきおい、低地に水路が発達した本所や向島は工場の集積地帯となった。特に関東大震災以後、焦土と化した本所地区からは工場をはじめ、多くの人々がまだ田園地域であった向島へ移転してくることとなる。
そして、仕事と生活の場が密集して混在するまちへと変化して、ほぼ毎日、隣近所が顔を合わせ、挨拶を交わす濃密なコミュニティーが育まれてきた。
公害防止条例制定以降、大規模な工場は郊外へ移転したものの、跡地には公的な団地が作られ、新たな住民もまじえたコミュニティーも形成されてきた。
残った町工場では、高度な技術力で、日本を牽引する分野で活躍するところも多い。
反面、まちの高齢化も進み、空き家や廃業した工場なども増えてきている。しかし、近年、これらの家屋・工場に、人間味あふれるまちに豊かさを求める多くの若者が移り住む流れが出てきている。
「向島」は、彼らも含め、さらに楽しいまちとして発展しようとしている。